ぬるま湯につかる

地方都市に暮らす30代薄給会社員の株やら暮らしのちょっとした記録

3月11日から4月になるまでの記録

明日、早いもので地震から8回目の3月11日が来る。

8年前、私はまだ高校を卒業したばかりだった。進学することが決まっていたものの、実家から通える距離だったので特にすべきこともなく、だらだらと過ごして春休みを満喫していた。

そんなふうに締まりのない生活をしていたので、14時46分の揺れから程なくしてPCの電源が落ちた時もどうせすぐに復旧するでしょう、なんて軽く考えていた。数日前から余震は何度かあったし、今回も大きめの地震かくらいの気持ちだ。

それなのに1時間経っても2時間経っても電気はつかなかった。水道もガスも止まったままで、空からは雪がちらちらと降ってくる。地震から数時間後、部活に行った弟や仕事に行った家族が帰ってきた時は安堵したものだ。郊外の住宅地にいるとわからなかったが、街中は信号が止まって混乱していたらしい。徐々に日が暮れているのに周りには灯り一つ点かず、雪は止む気配がなく落ち続けて、なんだか世紀末のようねと思った。

2011年の私はスマートフォンとかいう文明の利器を持っていなかった。ガラケーで調べるにもパケット量を気にしてしまい断念したし、電話は繋がりにくかった。頼りのインターネットは停電しているのでPCが動かないし、結局は祖母と一緒に聴いたラジオが唯一の情報源になった。かなり大きな地震だったこと、沿岸の町に津波が来ること、そんなことを伝えていた。しかしそのラジオも、何度聴いても同じ情報しか入らない。何度も同じ内容を聴くのも時間の無駄かと思ってラジオは消した。

日が完全に落ちても停電したままだった。

カセットコンロで鍋料理をして、仏壇のろうそくを灯して夕食を食べたような記憶がある。ガスが復旧したのが1番早かったのだが、当日だったか翌日だったか記憶が曖昧になり定かではない。

夕食を食べた後にポケットwifiとモバイルバッテリーをつなぎ、家族のノートPCで現状を知った。津波に飲み込まれた人がたくさんいること、このあたりは今インフラの全てが止まっているらしいことも知った。小さな画面で見る大きな津波は現実世界で起こったことには到底思えず、ハリウッド映画のワンシーンなのかと錯覚したほどだ。大震災を少しづづ実感しだしたのはインフラが完全に復活してテレビを見るようになってからのこと。復旧するまではいつ電気がくるのか、水が出るのかが気がかりで他に気を回す暇はなかった。

3月11日と12日の夜はとにかく星空が綺麗で、あの夜に見た星空を忘れることは出来ない。11日の夜遅くに雪は止み、なんとなく外を見るとプラネタリウムでしか見たことがないような夜空がずっと遠くの向こう側まで広がっていた。階段の踊り場から見える街は真っ暗で、唯一大きな病院だけが煌々と輝いて「希望の光に見える」と話したら、弟には「くっさ。ポエマーか」と言われた。まあ確かに。

翌朝もその翌日も給水のお知らせの放送で目が覚めた。一晩で復旧するだろうと軽く考えていたので、しばらくお風呂に入れないのは嫌だなぁなんて呑気なことを思い、小学生の時に読んだ「ぼくのじしんえにっき」の一歩手前じゃんとも思った。

今まで阪神・淡路大震災も、新潟県中越地震も、スマトラ島沖地震もどこか遠い世界で起こったことのようで実感がないまま18歳まで過ごしたものだが、これが震災なのかとひしひしと感じた。祖母は給水やら配給だなんて戦時中のようだと言っていた。

13日の朝に給水のお知らせ〜という声が聴こえた時の絶望と言ったらそりゃあもう大きなものである。地震から2日後、13日の朝も水が出なかったので、歩いて15分ほどの母の職場に水を貰いにペットボトルを担いで行った。その地域は水道の復旧が早かったらしい。

そんなわけで、13日の昼過ぎに水道が復旧した時の嬉しさはひとしおだった。あの日に入った真昼間からのお風呂は最高に幸せを感じた瞬間とも言えよう。

電気の復旧はいつだったのか記憶が曖昧になっているが、電気、ガス、水道が完全に元に戻ったのは13日の午後だった気がする。最後に電気が復旧した。この2日、トイレに頻繁にいきたくなると困るので食べ物、飲み物もセーブしたし、けたたましくなる緊急地震速報に備えて洋服のままで眠った。だから地震直後から不眠不休で作業してくれたインフラ関係の方に本当に感謝したし、普段の何気ない生活って実は全然普通じゃないんだということを改めて噛み締めた。たった2日間でもいろいろな思い出があるのだから、さらに被害の大きかった地域の方々の苦労は計り知れない。

震災から3日後の14日は平日だったので、大人たちはいつも通りに会社へ向かった。大人になるって大変だねと他人事のように思った。母はパートとはいえそこそこ忙しくしていたし、父もまた普段通り仕事に行った。

社会人になってから、震災当時の話をを聞くことがある。私の働くのは広告業界なのだが、マスコミ関係の人は忙しくて眠れなかったと話し、広告を売る人たちや作る人たちはしばらく仕事がなくてリストラになるか、会社が倒産するかもと心配したと話していた。震災後、広告業界はしばらく元気がなかった。広告なんて有事の際は正直必要ないもので、お金をかけてもらえるのは1番最後なのだからそうなのだけれど。

地震が起こってから4日、5日後だっただろうか。祖母と近所のスーパーに買い物に出かけた。見事に品物がなかった。僅かに並んだ品物もめちゃくちゃ高い。あんなに空っぽになった棚は見たことがない。普段特売で98円の卵しか買わない我が家で卵に200円以上なんてまじか!と、値段に仰天したり。一方祖母は「戦後はこんなもんじゃなかった。すぐ物は入ってくる」なんて謎の自信に満ち溢れ、物流がストップしているのにふんだんに食材を使って料理をし、母に怒られていた。

1,2週間はスーパーの陳列棚はガラガラで、ガソリンスタンドは混雑を極めていた。3月11日、私たちの住む街はまだ寒くて車で暖をとる人が多かったし、普段通りに出勤するとなるとガソリンがなくなってしまう。ガソリンも緊急車両や医療関係者の車両を優先的に給油していたし、1時間、2時間待ちが当たり前になった。

地震からしばらくはいつもと違った様子ではあった。それでも冬が終わるにつれ、4月になる頃にはいつもの日常に戻っていった。

 

長くなったのでひとまずここまで。

近頃どんどん私の中の震災の記憶が薄れてきたので忘れないように3月11日からの記録を。