ぬるま湯につかる

地方都市に暮らす30代薄給会社員の株やら暮らしのちょっとした記録

2011年4月からの記録

 

kikuuiki-uki.hatenablog.com

 △続き。

地震から1ヶ月後の4月の初旬、入学式は行われず静かに新生活が幕を開けた。あの当時、入学式は自粛する流れになっていたのでオリエンテーションで黙祷を捧げ、学生生活はスタートしたのだ。

震災後とはいえ、普通の学生生活を満喫していたと思う。1ヶ月も経つと、海から遠く離れた私の住む街はいつもと変わらないかのように見えたし、先輩たちが新入生の歓迎会もしてくれた。デザイン科学生だったので、あの頃頻繁に流れていたACジャパンの「素敵な仲間がポポポポーン」の素敵な仲間たちを何も見ずに上手に描ける同級生がたくさんいた。

普段と変わらないかのように過ごしていたけれど、地震が本当に起こったことだったと思い出す瞬間はあの当時頻繁にあった。同級生には家が全壊した子がいたり、自宅避難していたので支援物資を貰えなかった子がいて、それを何気ない会話で知った時だ。アメリカ兵に貰ったお菓子がアメリカンな味であまり美味しくなかった話や、ある場所を車で通ったら車体に謎の手形が無数についた話など、そんな話もたくさん聞いた。

そして5月が近づいた頃、私の通っていた学校では全学生が丸1日沿岸地域でボランティア活動をすることになった。被災地へはバスで向かったのだが、年頃の若い学生が乗車する車内は学校を出てから比較的ざわざわとしていた。それでも山道を抜け、以前町があった場所が見えた時、すっと静かになったのを覚えている。

そこに残っていたのは、瓦礫と鉄骨、津波の残骸だったからだ。

小さい頃、この町に1度だけ来たことがある。あの日見た景色はもうない。ボランティアに向かったこの日はやたらと天気がよくて、何にもない町の向こう側のがらんとした海は青く、キラキラとしていた。あの時受けた衝撃は忘れないと思う。これまでテレビやインターネットで町の様子を目にすることはあったが、画面越しに見る映像はきっと頭の片隅で遠い国で起こったことのような気がしていたのだ。

何もなくなった町の中を通り、津波の被害を逃れた地域でバスは止まった。バスから降りると呑気にカラスが鳴いていたりして、一見するとのどかな海沿いの田舎町のようではあった。しかし決定的に違うのはその空気だ。磯の香りではない生臭さや焦げ臭さが町中に立ち込めている。同級生たちもみんな、なんてことはないような顔をして作業に移ったのだが、あの時のにおいも忘れることはないだろうと思う。

デザイン科は女子が多かったので主に室内で写真の泥を綺麗にする作業をする。津波の被害を受けたものの、流されずに残ったアルバムがどっさりと積んであって、ひとつひとつ泥を拭いていった。最初は同級生たちと話しながらの作業だったが、写真を一枚一枚拭いていくうちに、こんなに笑っているこの子も、白無垢を来て微笑んでいるこの人も、もうここにはいないのかもしれないと考えたら悲しくなった。でもきっと無事だったかもしれないし、いつかこの写真を見ながら誰かを想う人がいるだろうとか、そんなことを考えながら黙々と作業を進めた。結局この日、積み上げてあったアルバムの半分も綺麗にならなかった。私はここで中途半端なままにしても帰れる場所があるのに、ここに住む人たちはどんなに面倒でも中途半端に放り投げることはできないんだと思うと申し訳なかった。

それから約1年後の2012年の夏、私はもう一度同じ町を訪れる。地元のこどもたちと壁画を描くボランティアに参加したのだ。再びバスを降りた時、もうあの時のにおいはしなかったけれど、町はさほど変わっていないように見えた。もちろん瓦礫が撤去されたりと少しずつ少しずつ変わってはいるのだろうが、流された町が元に戻るにはあまりにも時間がかかるのだと実感した。

ボランティア当時、壁画を描いていた小学生も今は当時の私と同じ年齢になった子もいるのだろう。あの3月11日から8年が経つのだ。

海沿いのあの町は徐々に道路が整備され、護岸工事も行われ、盛土をして土地も整備されている。新しい小学校も建ち、新しいお店ができたという、そんな嬉しいニュースもちらほらと届くようになった。

私には大それたことはできないけれど、こうしてあの日を思い出し、あの町のことを考えるのは大切だと思うのだ。

中国産のワカメを買ってしまわずに、あの町で採れたワカメを買ったりするような、そんな小さくて些細なことを続けていきたい。